いいでしょ?僕の人生

子どもの“伸ばす”ために自由を広げてあげたい


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小学生の父親になって、よく自分の小学生時代を思い返すようになりました。その理由は、どうも教育と言うものへの考え方や、学校という場所のあり方に疑問を持つことがあるからです。

私は教育者ではないので、まさに勝手な意見だと思います。…が、簡単に言ってしまえば、

「何事も無く毎日を平和に過ごしていることが正しい」

「“みんなと同じ”が良い子(それ以外は問題児?)」

という風潮を感じているわけです(ちょっと乱暴かもしれませんが)。今日は、ちょっとその辺について自分なりの考えを綴っておきます。

■やんちゃなことって、悪いこと?

お察しの通り、うちの子はいわゆる『悪い子』『ちょっと変わった子』的な見方をされているようです。学校から連絡を受けることもあり、そうなればどうしても親は

「うちの子、なんとかしないと」

なんて思いますよね。まして初めての子供なら、不安は募るばかりでしょう。もちろん親として、悪いことは悪いと教えてあげなくてはなりません。しかし、どうも学校が過敏に思えるよなケースもあり、私自身の考えと学校からの指摘にギャップを感じることがしばしば。

例えば私の場合、よく忘れ物をしました。酷いときは、学校にランドセルを忘れて帰宅したことがあるほどです。あるいは雨の日、帰りに晴れていれば友達と傘でチャンバラ。傘で色んなものを突いて、よく先端に穴が開いてしまったものです。

喧嘩もしました。あまり強い方ではなかったので、むしろ“やられる”側が多かったですが…。しかし仲直りして、そこからお互い良い友だちになることも多い。気になる女の子にちょっかいも出したし、授業に集中できず、消しゴムを丸めて遊んでいたこともあったと記憶しています。教科書の人物写真に落書きしたり、パラパラ漫画を作ったなんて経験も豊富です。

みなさんも、こんな体験ってお持ちなのではないでしょうか?

もちろん程度にもよりますし、先に挙げたのは決して良い事ではありません。注意されて、それでも止められなくて…その繰り返しで学び、正されていったのではないかと思います。もちろんそこには、成長による理解もあったでしょう。

しかし今は叱られるに留まらず、こうした行動が見られるだけで『悪い子』『変わった子』として見なされてしまいます。もっと私の見えないところでいろんな要素があるのかもしれませんが、少なくとも“やちゃ”はNG。カウンセリングやら何やら、どんどん勧められます。

何がダメなのか?

そんなの、やってみなければ分かりません。法律に触れるようなことを除き、学校では初めてがいっぱいなのですから。友達や先生との関わりの中で、いろんな経験を積み、学んで成長していく。その機会が、あまりにも低いラインでストッパーを掛けられてしまっている気がするのは、私だけでしょうか。

■みんな一緒が良い子なの?

学校という手段行動の中では、もちろん協調性を持って取り組むことが大切です。しかし、すべてにおいて“みんな一緒”であることが、果たして良いことなのでしょうか?

私は美術が好きで、しかし得意ではありませんでした。変にこだわりを持ってしまい、みんなが完成する時間内に終わらず居残り。幸いにも先生に恵まれ、

「こだわりがあるなら、じっくりやりなさい。それが個性だから。」

なんて理解してくれました。そのお陰で、出展作に選ばれて賞をもらったこともあります。みんなと違う、時間を守れなかった私が…です。

また、負けず嫌いな私は、よくゲームで癇癪を起こしていました。スーパーマリオが進めないと「もういい!」と投げやりになり、少ししてまた挑戦の繰り返し。野球ゲームで負けが続くと悔し泣き。でも別に、今はゲームで泣くことなんてありません。これは、もしかしたらゲームに限らず、学校でもあったのかもしれないな…と今では思います。

そんな私が、今では自分でビジネスに取り組んでいる。それこそ行き詰まったり、負けを感じたりすることは山ほどあります。でも諦めないし、悔しさをバネに進む。これは恐らく、子供の頃に「出来ないならやめろ」と取り上げるのではなく、それでも見守ってくれた家族・先生のお陰なのではと思うわけです。自分が立派な大人だなんて微塵も思いませんが、少なくとも普通に生活できている…はず。

当然そんな私は、周囲の“良い子”から見たらちょっと変わった存在だったでしょう。しかし人間なのですから、違って当たり前。むしろ『みんな一緒』が良いとされる風潮に、私は怖ささえ感じています。これは、別に我が子可愛さに弁解しているわけではなく。

他との違いを指摘されると、親は周囲からの目を気にしてしまうのかもしれません。しかし個人的に、私はそんなの気にしない派です。

子どもがどう思っているのか。

それが一番大切であり、親が「自分の子が変わっていると思われたくない」なんて、それこそ勝手なエゴではないでしょうか。私も、もっと子どもと本音で語り合う時間を持たなければと、日々反省しています。

■家庭のあり方

とはいえ学校は教育機関であり、大勢の子ども達が集まる場所です。モンスターペアレントなんて存在も、実際にあるのでしょう。子を預かり、教育を任される学校ですから、どうしても『何事もなく過ごしてもらう』ことは優先されるのだと思います。なのでこのブログ、別に学校を非難しているわけではありません(今更ですが)。

まして私がこんな意見を持ったところで、生徒1人の親に過ぎず。何が変わるでもないことは、私だって知っています。

だからこそ、家庭が大切。

学校で何を言われても、親として常に子を信じ、味方でありたいと思っています。なかなか完璧にはいきませんが、その気持を持って接することが大切。そうでなければ、子どもが迷走してしまうのではないでしょうか。

私は、少しやんちゃな程度がちょうど良いと思っています。友達を怪我させたり、迷惑になることは避けた方が良いでしょう。が、「やってしまった」ことは仕方ない(程度にもよりますけど)。一緒に理由を考え、次から起きないための対策を理解してもらうことが重要です。

他の子と違うことがあるなら、それは個性として受け止める。「みんな一緒」のために押し込めてしまうのではなく、伸ばせる方法を考える。そのうえで他から離してしまうのではなく、一緒の場にいられるように最善を尽くす。…自分で書いていて、ものすごく難しいですね。でも、それが家庭としてのあり方ではないか?なんて考えるわけです。

私は中学校で陸上競技を教えていますが、正直言っていろんな生徒がいます。

  • 言い訳ばかりで練習しない
  • “やらない”ことをカッコいいと勘違いしている
  • 練習中に喧嘩を始める

などなど。

もちろん部活ですから、ちゃんと練習するよう話します。しかし部活への熱意は誰もが異なり、性格だって違うのは当然。どれだけ頑張れるかは、人それぞれです。いわゆる問題児だって、ちゃんと自分の中で出来ることをやっているのではないでしょうか。

■まとめ

自分でも何が言いたいのか、よく分からなくなってきました…

結論として、もう少し子どもを自由にさせてやっても良いのではないかな?というお話。はみ出た部分を無理に押し込めたり、引き抜いて別の場所に移したりしてしまうのではなく。中心を確保したうえで、どんどんはみ出させてあげるのも大切な経験になるのではと思うわけです。

最近、よくADHDに関するインターネット記事を目にします。これこそ、まさにこうした背景から「もしかしてADHD!?」のハードルが下がっているのではないでしょうか。

子育てって難しいですね。

何歳だろうが1人の人間です。分からないことは教えてあげるし、いけないことは叱ることも必要でしょう。しかし、人として同じ目線で接してあげないと、子どもには不満や疑問ばかりが溜まってしまう気がします。

子どもだって、ダメなことはダメだって分かっているはず。ちょっと「遊びたい」「面白そう」なんて好奇心が先行して、失敗してしまうだけなのではないでしょうか。私も走りたい衝動を抑えられず仕事中にランニングへ…なんてしょっちゅうなので、ものすごく気持ちが分かります。

いろんな子育て論がありますが、親は自分たちの信じる方法で、子を育てるしかないのでしょう。しかしその方法における軸が簡単にブレてしまうと、子どもは戸惑ってしまいます。きっとそこには、夫婦の対話も大切なのでしょうね。

長男が学校から帰ってきたら、久しぶりにパソコンでも教えようかな。